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ルーピー政党政権

西岡参院議長、首相と官房長官を一刀両断「国家を担う資格なし」
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/110106/stt1101062106013-n1.htm

【単刀直入】田中秀征元経企庁長官「自民は老朽住宅、民主は仮設住宅」(3/3ページ)
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100921/stt1009210015000-n3.htm

あちらこちらでの、ネット上の言説を見ると、ルーピー政党政権への、幻滅が、怒りや憎しみに、変わりつつあるようにも思える。かつてのルーマニアの、チャウシェスク政権に対する、ルーマニア国民の憎悪のようなものに、近づいている感じがする。私自身は、この前の選挙では、民主党にも自民党にも投票せず、みんなの党などに投票した。そもそも、公労組の支持を受けている民主党が、公約に国家公務員人件費2割以上削減などと掲げても、口先だけだと思っていたが、まさに案の定である。ただし、まさか、ここまで無能でルーピーな政党だとは、思ってもいなかった。


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謹賀新年

また誓いを、新たにし、新年を迎えたい。


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電子書籍の作成

 現在、自分自身の哲学の論文を、電子書籍化するために、鋭意努力している最中です。元原稿は、12年前から自身のWebサイトに公表している自分の哲学の論文ですが、より詳しく分かりやすくするため、加筆・再編集しているところです。今のところ、130頁ぐらいまで進みましたので、残り、80~90頁ぐらいを仕上げれば、ほぼ完成ですが、この後半部分に、いろいろ頭を悩ませる部分があるので、これまでよりも時間が掛かりそうです。
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一流の文学作品、傑作について

 私の趣味で、私が一流だと考える、文学作品の傑作について、少しく、述べたいと思います。

 まず、何を以って、一流だと考えるかについてですが、それは、その作品に、心を打つ、圧倒的なものが、有るか、無いか、それに尽きます。読んでみて、圧倒的なものが、有れば、傑作ですし、無ければ、凡作ないし、駄作の類(たぐい)に為ります。

 たとえば、傑作と言えるものを上げると、宮沢賢治の作品群、ゲーテの『ファウスト』、ドストエフスキーの『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』、紫式部の『源氏物語』などなど…。

 それから、文学作品とは呼べないかもしれませんが、新渡戸稲造の『武士道』や『ゴッホの手紙』など、これらも、世界的に見て、その、文学的内容において、まさしく、一流だと考えています。

 また、人それぞれ、好みは異なりますが、私の場合、思わせ振りな、終わり方の作品は、あまり、好きに為れません。それは結局、その作品で作家が、何ごとかを、言い切れないために、思わせ振りな、技巧・テクニックに走っているように、受け取れるからです。

 要するに、中身の無い作品でも、中身が有るかのように思わせたい場合などに、思わせ振りな、技巧・テクニックが、使われる場合も有るのです。

 そして作家は、作品、創作時点において、自らの全てを、その作品に込めるべきだとも、考えています。

 未完である、『カラマーゾフの兄弟』のように、結論が出ていなくとも、その時点における作家の全てが込められているならば、作家が、作中人物に言い切らせた、真摯な問い、そのものに、心を打たれることも有るのです。

 おわりに、作家の全てが込められ、言い切った好例として、ゲーテの『ファウスト』の一節を、引用したいと思います(ゲーテ、『ファウスト』、高橋義孝=訳、新潮文庫より)。

   そうだ、己(おれ)は、こういう精神に、この身を捧げているのだ。
   それは、叡智(えいち)の、最高の結論だが、
  「日々に、自由と生活とを、闘(たたか)い取らねばならぬ者こそ、
  自由と生活とを、享(う)くるに値する」。
   そして、この土地では、そんな風に、危険に取り囲まれて、
  子供も大人も老人も、まめやかな歳月を送り迎えるのだ。
   己(おれ)は、そういう人の群れを見たい。
   己(おれ)は、自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。
   そういう瞬間に向って、己(おれ)は、呼びかけたい。
  「とまれ、お前は、いかにも美しい」と。


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テレビのニュースで全く報道されない。

「枝野氏が革マル幹部と覚書」
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100717/plc1007171052008-n1.htm

 異常なほどの報道統制だと思う。革マル派と中核派の互いのテロルでは何人もの死者が出ており、また、巻き添えにより一般市民にも犠牲者が何人も出ている。そのような極左テロリストの集団と、公党(しかも政権与党)の幹事長が覚書を交わすなど大問題だが、信じられないほど、テレビその他でも報道されない(日本には、旧ソ連に有ったような、鉄のカーテンが存在するのか…)。

参考:『中核VS革マル(上・下)』、立花隆=著、講談社文庫。


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2009年ダライ・ラマ法王四国特別講演

2009年ダライ・ラマ法王四国特別講演

日時:2009年11月03日(火・祝)13:30~16:00
会場:愛媛武道館
※ 詳細は下記サイトへ、どうぞ(東京講演も有るようです)。

http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/2009japan/shikoku.html


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【北朝鮮核実験 2009/05/25】

【北核実験】「核実験実施」と北朝鮮 北東部でM4・5の揺れを観測、韓国
http://sankei.jp.msn.com/world/korea/090525/kor0905251203006-n1.htm

北朝鮮、短距離ミサイル3発発射 日本海に向け
http://www.47news.jp/CN/200905/CN2009052501000539.html

長崎原爆並みの威力か=短距離ミサイルも発射-国際社会、一斉に非難・北核実験
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090525-00000186-jij-int

北朝鮮は、つい、この間、日本列島を飛び越える弾道ミサイルを発射したばかりで(約3,500km飛翔)、今度は、長崎原爆並みの核実験を行ったようである。これで、北朝鮮の核弾道ミサイルの射程内には、日本および韓国と台湾そしてモンゴルとラオスの全土、それから中国とロシア極東とフィリピンおよびベトナムとタイとカンボジアの大半、さらには、カザフスタンとミャンマーとインドの一部が入ることになった。これは、もはや、極東アジアだけの問題ではない。アジア全体におよぶ軍事的脅威であり、アジアの平和、延いては世界平和を脅(おびや)かす、極めて深刻な問題である。次期、衆議院選挙でも、北朝鮮の核武装という、重大な脅威に対する日本国民の安全保障の問題は、最も重要な問題の一つとして取り上げられるはずである。


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いやはや、何と言うべきか…。

ピースボート護衛受ける ソマリア沖
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090514/plc0905140140001-n1.htm

ピースボートは、海賊対策での海上自衛隊派遣に反対しながら、その海上自衛隊にソマリア沖で守ってもらった訳だ。


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北朝鮮、長距離弾道ミサイルを発射

平成21(2009)年、4月5日、核兵器を保有している北朝鮮が発射した長距離弾道ミサイルが、日本列島上空を飛び越えた。テレビニュースなどを見ていると、「冷静な対応を」と、述べているキャスターも居るが、国民の、ほとんどは冷静である。

問題は、冷静になるだけで、何もしない、あるいは、何もしなかったというのでは、お話にならないということである。

このようなことになる可能性は、10年以上前から分かっていたことである。当然、本来なら、現時点において、北朝鮮の核弾道ミサイル攻撃から、日本国民の生命と財産を守る、実効性のある防衛力が整備されていなければならないのだが、実際は、穴だらけのザルを被っただけにしか思えない。

もはや、北朝鮮の核弾道ミサイルが、広島長崎東京などに向けて、発射される可能性も否定できないというのに…。


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チベット動乱から50年

ダライ・ラマ、チベット動乱50周年で声明
http://www.cnn.co.jp/world/CNN200903100018.html

「数千人を恣意的逮捕」と批判 チベット自治区周辺
http://sankei.jp.msn.com/world/china/090310/chn0903100117002-n1.htm


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ブログの著作権に関する規約

以前、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)のミクシィで、ユーザーの著作権が、規約改定によって、侵害されそうになり、大きな問題となりましたが、今現在、ブログなどのサービスにおいても、ユーザーの著作権を無視するような規約を明記している企業があります。

最近、商業倫理というか、商道徳が荒廃して、詐欺まがいの行為も横行し、企業活動における、法令順守(コンプライアンス)の重要性が唱えられている中、ユーザーの著作権を無視するような、ブログの規約を明文化できる、企業経営者の神経が、私には理解できません(gooブログ等、それから掲示板では、2ちゃんねる等も…)。

ちなみに、私が利用している、FC2ブログと、So-netブログの著作権に関する規約は、一応、合格ラインではないかと考え利用しています。以下のリンク先を参考に、十分に注意してブログなどのサービスを利用して欲しいと思います。

ブログ著作権規約を全チェック
http://www.kotono8.com/2004/11/14copyright.html


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『中国はいかにチベットを侵略したか』

 第二次世界大戦後に行われた、中国共産党政権による、チベットへの軍事侵略。刻一刻と着実に侵略の準備を進める中国軍に対して、国として組織的に防衛力を整備しない、チベットという構図が対照的である。仏教国であるチベットの寺院は、中国軍によって大半が破壊され、多くの僧侶や庶民も虐殺される。虐殺を繰り広げる残虐な中国軍に対して、チベット人が自衛のため果敢に戦う姿は、勇ましくもあるのだが、あまりの軍事力の差に祖国チベットを奪われてしまう(奪われた広大なチベットの領土は、日本の国土の数倍に及ぶ)。なぜチベットは、中国に侵略される前に、防衛力を整備できなかったのか…。国家と国民の安全保障の問題を考える時、必読の書だと思う。実際、原子力潜水艦で日本の領海を侵犯する侵略的な中国軍の存在は、日本にとっても脅威以外の何ものでもないのだから…。

 下記は、『中国はいかにチベットを侵略したか』、マイケル・ダナム=著、山際素男=訳、講談社インターナショナル2006年の、本文からの抜粋引用。

 …何百年も孤高を享(たのし)んできたチベットだったが、戦力なしでは国を保てないことにようやく気づいたのである。かくてチベットは世界に門戸を開き、新時代を迎え入れる準備を始めた。諸法規も改革されていった。
 ラサの三大僧院、デプン、セラ、ガンデンに代表される古い伝統的仏教界はこの改革に狼狽した。仏への冒瀆とまではいわぬまでも、世俗の軍隊を強化するなどとんでもない。非暴力をむねとする仏教の原理とは相容れないものであると猛然と反対した。
 しかしよく見てみると、そこには彼らなりの世俗的計算が働いていたのである。たとえば、新軍隊の維持費として僧院にも課税されることになった。またそれまでの、僧院の私兵である戦士僧侶を中心とする院内警察力の存在が新軍隊によって脅かされるのを恐れたのだ。
 何やかやと度重なる僧院側の圧力でダライ・ラマ十三世は嫌気がさしてしまい、一九二四年にせっかくの軍の近代化を断念してしまった。おかげでチベットは高い代償を払うことになる。(48pより)

 チャムドから緊急の無線がラサ内閣に届いていたが、高級官僚たちも含む五日間のピクニックが催されており、彼らは何の手も打たず催しをつづけていた。しかも驚いたことに、中共軍(引用者注・中国共産党軍)の侵略についてインドその他の通信機関にもまったく通報していなかったのである。国際社会に警告を発することにより、チベット国内が混乱するのをより恐れたとしか思えない。さらに中共軍が中央チベットに侵入してこない限り、東チベットの同胞がどうなろうと構ったことではなかったのだ。しかしそれ以上に政府閣僚の臆病さが問題であった。外国に助けを求めているのが中共軍に知れたら、毛沢東はそれを口実に一気にチベット政府を押し潰しにかかるだろう。理由はともあれ、ラサの貴族階級政府の利己主義が己の運命を決めてしまったといえる。(66p~67pより)

 一九五八年初め、中共は東チベットだけで十五万の兵力を展開させていた。一九五六年に開始された〝改革〟は遊牧民の間にも波及し、抵抗を拡大させていた。「アムドの遊牧民地帯では、男のほとんどは逃亡するか捕らえられるか殺されるかで姿を消してしまった。モンゴル族たちはほとんど皆殺しにされた」(「チベットネーション」紙)
 ココノル湖に近いある地区では、千人以上の僧侶が僧院の庭で一斉射撃によって虐殺された。僧院の大半は財宝を略奪され、破壊され、残った材木、石材は中国本土からの移民の住居に充てられた。アムド族は強制労働に送り込まれ、その三分の二は死んでしまった。最も悲劇的だったのは、祖国奉仕(引用者注・傍点を下線に変更)という名の強制労働に両親が集中できるよう、何千人という子供たちがトラックに積み込まれて連れ去られ、それを阻止しようとした母親たちが近くの河に投げ込まれていったことだ。五十ヵ国でなるジュネーブ人権調査委員会は、約一万五千人の児童がこうして拉致され、行方不明になったと報告している。(164p~165pより)

 それからというもの、そうした虐殺行為は日常的になってしまったのです。思えば、一九三二年八月、ダライ・ラマ十三世はすでにこのことを予言していました。〝遠からずチベットは崩壊するだろう。ダライ・ラマもパンチェン・ラマも父も息子も、聖職者たちも消えてしまい忘れられてしまうであろう。僧侶も僧院もことごとく消滅し、国土も政府の財産も取り上げられ、敵に仕えるか、さもなくば物乞いの如く世界を流離(さすら)うことになろう。すべてのものは苦悩の底に沈み、恐怖に戦(おのの)き、昼も夜も不幸な影を引いてゆかねばならぬだろう〟(40pより)
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チベットに、自由を!

現場入り妨害と中国非難 国境なき記者団
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/130853/

「国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」(本部パリ)は…」、
「…中国が北京五輪招致の際に表明した報道の自由に関する約束に違反するとし「中国政府は目撃者のいない場所で弾圧を準備している」と批判…」。(上記、サイトより、引用)

ローマ法王、チベット憂い「人災は故意に隠される」
http://www.asahi.com/international/update/0324/TKY200803240047.html

チベット弾圧:チベット人に扮した警察官がデモ隊を扇動
http://jp.epochtimes.com/jp/2008/03/html/d53827.html

Beijing orchestrating Tibet riots
http://buddhism.kalachakranet.org/chinese-orchestrating-riots-tibet.htm

各家庭から1人連行、密告奨励も=チベット人への締め付け強化-中国
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080326-00000014-jij-int

CHINAZIS
http://imagepot.net/view/120626670477.jpg

仏大統領「あらゆる選択肢」・北京五輪開会式不参加も
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20080326AT2M2503J25032008.html

英皇太子、北京五輪出席せず。中国のチベット政策に抗議
http://www.voiceofindia.co.jp/content/view/772/81/

今まさに、“CHINAZIS” によって、罪の無い多くのチベット人市民が、ゲットーへと、送り込まれているのかも知れない。

「群衆に装甲車突入」…ラサ住民
(2008年3月16日03時37分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080316-OYT1T00024.htm

チベット:抗議デモと軍の衝突で80人以上の死者
【大紀元日本 3月15日】
http://jp.epochtimes.com/jp/2008/03/html/d33805.html

再送:チベット暴動、中国はダライ・ラマ派との「人民戦争」を宣言
[北京 16日 ロイター]
http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPJAPAN-30846720080317

チベット・ラサで数百人拘束 デモ、各地で拡大
「中日新聞 2008年3月17日 夕刊」
http://www.chunichi.co.jp/article/world/news/CK2008031702096136.html

戦争を宣言、中国が、ダライ・ラマ支持派との…。たいへんな事件ですが、報道は、現在進行形でチベットの侵略と植民地化を実行している中国側により、制限されているとの事。早急に、国際機関による調査が必要でしょう。

また、下記サイトには、中国の保安隊に射殺されたという、チベット人犠牲者の写真も掲載されています。

Tibetan Centre for Human Rights and Democracy(チベット人権民主化センター)
http://www.tchrd.org/

チベットに、自由を!
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マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』

「…社会的生産諸力を奪取…」(54p)、「…破壊しなければならないものは、これまでのすべての私的安全や私的保障である」(54p)、「…内乱を追求…」(55p)、「…所有権への、…専制的干渉…」(68p)、「…土地所有を収奪…」(68p)、「…財産の没収」(69p)、「…労働強制…」(69p)、「…いっさいの社会秩序を…転覆…」(87p)。

 上記は、マルクス&エンゲルス=著、『共産党宣言』、大内兵衛&向坂逸郎=訳、岩波文庫、1996年より、抜粋したものです。同書を、ざっとでも読めば分かるように、共産主義とは、間違いなく、テロリズム思想そのものです。広辞苑によると、テロリズムとは、「暴力あるいは、その脅威に訴える傾向。暴力主義。テロ。恐怖政治。」などとあります。「すべての私的安全や私的保障」を「破壊しなければならない」と言い、「土地」の「収奪」、「財産の没収」、「労働強制」などは、百万人単位での大虐殺者である、ポル・ポトや毛沢東およびスターリンなどが、実際に、行ったことです。このような非人間的な邪悪さは、恐怖政治思想である、共産主義そのものの本質なのです。もう何年も前から、インターネット上で何度か述べていますが、ようするに共産主義とは、オウム真理教と同じ、絶対主義的な“カルト宗教”なのです。ちなみに、人文主義的な教養が欠落していると、カルト宗教信者になりやすいのかもしれない。


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市場と国家

歴史的に、市場と国家の、どちらが先かと言えば、現在の考古学上の見地などから言うと、市場が先と言うことになろう。古代国家が生まれる以前から、黒曜石などが、その産地から、かなり遠く離れた地域まで、交易により運ばれていた可能性が高いとされている。だれかのブログで、市場と国家では、歴史的に国家が先だというようなことが書かれていたように思うが、現時点における考古学上の見地からすると、歴史的には、国家より、市場が先なのである。

下記は、『世界大百科事典』、平凡社、「黒曜石」の項からの抜粋。

「最近の物理化学的手法の発達によって,この原石産地と遺跡出土の黒曜石の需給関係が正確に論じられるようになった。それによると,約2万年前に伊豆諸島神津島の黒曜石が本土に多く流入している事実や,約3000年前のハワイ諸島近くの遺跡にニューギニア付近の黒曜石が持ち込まれていたことがわかっており,海上交通が早くから行われていた証拠となっている。」

同じく、『世界大百科事典』、平凡社、「交易」の項からの抜粋。

「原始・古代において,産地の限られた天然資源とその加工品,あるいは製作に高度な技術を必要とする製品の交易が認められる。石器の材料となる黒曜石はアメリカや西アジアでも広く使用されたが,日本では十勝岳,長野県和田峠,伊豆,隠岐,大分県姫島,阿蘇などの地域に産地が限定される。」

中国の雲南省や日本の新潟県姫川産の硬玉は装身具の材料として広く流通した。南海産の子安貝は旧石器時代のフランス,殷代の中国,縄文・弥生時代の日本の遺跡などで発見される。このほか,塩や接着剤のアスファルトなども交易の対象となった。金属器や陶器など,高度な技術で製作されたものの交易は青銅器時代以降に発達した。古代エジプトのファイアンスの青色の玉は流通範囲が広く,イギリスの墓地遺跡でも出土する。ヨーロッパでは交易品たる青銅器を携えて移動する人々が,製品を一時的に保管した埋納遺跡がある。原始社会の交易は小地域内のもの,広域にわたるもの,ともに互恵的な性格が強いが,古代には支配者によって政治的に掌握され,貢納物資として流通するものも現れた。」


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「ライプニッツの生得概念」

伝え聞くところによると、ライプニッツ(もしくは、その同調者)などは、幾何学における、「線とは、幅のない長さである」、などを例に上げて、これを経験に依ることのない、概念だと述べていたとか…。

だとすれば、おそらく、彼(あるいは、彼ら)は、幅のない長さだけのものなど、経験上、存在し得ないものだと考えたのであろうが、しかし、我々は経験上、実際に、或る物の長さを物差しなどで測っている時には、その幅や厚みのことを無視(幅や厚みが無いものと仮定)しているのである。

要するに、経験に依らないのではなく、逆に、経験から、「幅のない長さが、線として」、抽出されたと考えるのが、妥当であろう。

〔注〕 上記は、下記サイト(URL)から転載し、加筆したもの。
「随 想 録」
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/essay-page.html


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ゲーデルとゲンツェン

 「ゲーデルは、1931年に〈自然数論以上の数学的内容をもつ形式的体系がもし無矛盾ならば、その体系の無矛盾性の証明は体系内で形式化可能な方法によっては証明できない〉(ゲーデルの定理)ことを証明した。当時、ヒルベルトのいう有限の立場での超数学の実行とは、初等数論で用いられる有限的方法と同様に疑いの余地のない確かな論法で数学に矛盾のないことを証明することと解されていたので、ゲーデルによるこの結果は人間の理性一般における限界を示したものとして衝撃を与えた。しかし、ゲーデルの定理はヒルベルトの計画に重大な制限を与えたことにはなるが、その計画自体の挫折を意味するものではない。その後ヒルベルト自身も述べているように、それは有限の立場を従前の初等的にではなく、より鋭い意味で用いることが迫られることを意味している。
 実際に、36年にゲンツェン G. Gentzen は有限の立場を一段と深化発展させることにより算術(純粋数論)の無矛盾性を達成するという画期的な仕事を行った。
 ゲンツェンは1934年の学位論文《論理的推論の研究》において、数学で通常行われる推論をそのまま反映するような自然な論理計算の形式化を試み、それに技術的な推敲(すいこう)を行って1階の述語論理のまったく新しい形式の体系 LK(ゲンツェン・タイプの体系という)を導入し、論理についてのまことに美しい法則〈LK で証明できる論理式は三段論法をまったく用いないで証明できる、すなわち、回り道のない証明を与えることができる〉(ゲンツェンの基本定理)を示したが、上述の36年の論文《純粋数論の無矛盾性》で、純粋数論をLK で形式化し、その無矛盾性を順序数 ε0までの超限帰納法によって証明したのである。」(『世界大百科事典』、平凡社より引用)

 ゲーデルは有名ですが、ゲンツェンは、あまり知られていないように思います。ちなみに、上記のゲーデルの定理を、循環論法ではないかと言った研究者も存在するそうです。「自然数論以上の数学的内容をもつ形式的体系が〔もし無矛盾ならば〕、その体系の〔無矛盾性の証明は〕体系内で形式化可能な方法によっては〔証明できない〕」(ゲーデルの定理)。循環論法だと言われるのは、〔 〕内に注意すると良く分かります。これは、まさに循環論法のように思えます(循環論法とは、証明されるべきことと同様のことを証明なしに前提とする論理的な虚偽)。


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「東洋から西洋への影響(ノート)」

 まずは、論文の紹介です。『中国思想のフランス西漸(1・2)』、後藤末雄=著、矢沢利彦=校訂、平凡社、2003年。
 七十数年前に、書かれた論文の、増補・改訂・復刻版です。たいへん独創的な論文だと思います。いま2巻目を読んでいる途中ですが、ヨーロッパアジア(特に中国)へ「進出」した当初から、中国思想や文化が、ヨーロッパへと「逆に」伝播したことを、論述しています。
 この論文の内容を、私は、最近まで知りませんでしたが、実は、私も同様の論点で、ヨーロッパがアジアを「侵略」した時から、私の場合は、特に仏教思想や哲学が、ヨーロッパへと「逆に」伝播したのではないかという自説を展開しています。
 私の説をも、補強する証拠が、この論文には、いくつも存在します。たいへん立派な、学問的業績だと考えます。先達(先学)に敬意を表したい。
 以下は、『中国思想のフランス西漸(2)』、後藤末雄=著、矢沢利彦=校訂、平凡社、2003年からの、抜粋。

 古来、中国では完全に信仰の自由が認められていた。中国には祖先教、儒教以外に仏教、喇嘛教が信奉され、かの基督教は、一六九二年康熙帝時代に公許された。「信仰の自由の使徒」と呼ばれたヴォルテールはこの点において、全く中国の法制に魅惑されたのである。殊に雍正帝は「日本における基督教徒の叛乱」に鑑み、宣教師の異教不認容主義が内乱を醸成することを憂慮し、断然宣教師を駆逐した。この皇帝こそ政治と信教とを識別し、全然この両者を分離することが出来たのであった。換言すればヴォルテールの理想は、中国皇帝によって実現されたのである。それ故、彼は雍正帝の宣教師に与えた勅言を賛美し、帝をもって「神が人間に与えた名君のひとり」とまで激賞したのである。
 私の列挙した中国文明の特徴、道理の尊重、迷信の絶無、賢明な専制政治、法制に現われた仁愛の観念、道徳の奨励、平等の精神、信仰の自由は、皆ヴォルテールの精神であり、その提唱であった。そして中国思想がヴォルテールの生前から耶蘇会士によってフランスに西伝されたこと、また彼が著書中で中国の文物制度を賛美すること、殊に彼の提唱の多くが中国思想と合致することに立脚して、この社会哲学者の意識中に中国思想の影響を認めるものである。(122pより)

 引き続き、前掲書からの、抜粋。

 かくの如く中国文化はフランスに紹介され、百科全書家に接触すると同時に、フランスの学会に進出して遂に支那学が成立し著名な中国学者を生じ、中国人をもってエジプトの植民なりと断定する暴論まで、学会の大問題をなしたのであった。それ故、ルイ十四世がフランス耶蘇会士を中国に差遣した学問的大命が完全に成功した許りでなく、中国とフランスとの思想的接触はフランス文化そのものの革新に資益したのであった。恐らくルイ十四世は、かかる結果を来たそうとは夢にも思わなかったであろう。実際、この大王は学問を愛してこれを保護しながら、学問の進歩によって人知が進歩し、延いて人間生活の革新を促すべき事理を理解していなかったのである。(306pより)

 学問の進歩が重要なのは、まったく同感です。まだ全てを読んだわけではありませんが、中国の「易姓革命」思想も、フランス革命の、思想的背景にあるのかも知れません。

 そして、今度は、『失われた発見』、ディック・テレシ=著、林大=訳、大月書店、2005年からの、抜粋です。

 …中世にアラビアの学者たちはギリシア人の写本を捜し求め、ペルシアのジュンディシャプールとイラクのバグダッドに学芸と翻訳の機関を設置した。西洋の歴史家は、この学者たちが中国やインドからも写本を集め、独自の科学を創造したということをあまり認めたがらない。
 学問はカイロに広がり、イスラム教徒の帝国がヨーロッパに拡大するにつれて、スペインのコルドバとトレドに広がった。一二世紀にキリスト教徒がトレドを奪還すると、ヨーロッパの学者たちはイスラム教徒の文書に群がった。学者たちはアラビア人の文書なら何にでも興味をもった。ギリシア人の著作の翻訳だけでなく、アラビア人独自の著作や、ほかの文化圏の写本のアラビア語訳にも。古代世界の科学的知見の多く――ギリシア、バビロニア、エジプト、インド、中国のもの――が、スペインを通して西洋世界に伝えられた。一六世紀はじめにダマスカスとパドヴァの間でアラビア語の写本が大量に運ばれていたことを、ジョージ・サリバは突き止めているし、ヨーロッパの図書館で、アラビア語で書かれた、科学に関する文書が次々に再発見されている。また、ルネサンス時代のヨーロッパの学者にアラビア語に通じていた者が少なくなかったことをサリバは文献で裏付けている。
 その一例として、パドヴァで学んだコペルニクスがいる。…(15pより)

 引き続き、前掲書から引用します。

 …ヨーロッパ文明のルーツはアフリカ-アジア文化圏にある。ギリシア人はこのことを知っていて、それについて書いており、青銅時代さらには鉄時代にギリシアにあったエジプト人の植民地のことを語っている。ギリシアの偉大な知性は、たとえば、ピュタゴラス、デモクリトス、さらにはプラトンまでエジプトに旅し、エジプトの思想と知識をもちかえっている(自分の数学の才能はピラミッドの陰で磨かれたと認めるデモクリトス自身の文章が残っている)。ギリシア人は、エジプトに負うところがあることを認めていた。この「古代モデル」によれば、ギリシア人文化は紀元前一五〇〇年ころにエジプト人とフェニキア人による植民地化の結果、興ったのであり、ギリシア人は近東の文化から多くのものを採り入れつづけた。それは古典・ヘレニズム時代のギリシア人の常識だった。古代モデルは、ルネサンスから一九世紀までのヨーロッパ人にも受け入れられていたとバナールは書いている。ヨーロッパ人はエジプトに魅了されていたとバナールは言う。
 数世紀の間、ヨーロッパ人は、エジプトが文明のゆりかごだと考えていた。状況が変わりはじめたのは一九世紀のことだ。このころ、キリスト教の護教論者たちがエジプトの汎神論を気にかけ、人種的純血の思想がロック、ヒュームら、イギリスの思想家の間に根を下ろしはじめた。こうして、一九世紀の前半に「アーリア・モデル」が生まれた。この見方は、エジプト人の植民地が存在したことを否定した。さらに、19世紀の終わりころに反ユダヤ主義が高まると、アーリア・モデルの提唱者はフェニキア文化の影響も否定した。(12p~13pより)

 ちなみに、耶蘇(イエズス)会士は、西洋科学として地動説を、乾隆帝(けんりゅうてい)に教えているのですが、最近の研究によると、これまで、「コペルニクス革命」とまで言われてきた、ギリシア以来の天動説から地動説への革新が、実は、コペルニクスによるアラビアの学者からの剽窃である可能性が高いのです。
 さらに、『失われた発見』、ディック・テレシ=著、林大=訳、大月書店、2005年からの、抜粋。

 コペルニクスは、当時利用可能だった数学を用いて、この新しい惑星系像を組み立てることができたのであり、コペルニクス革命は、エウクレイデス〔ユークリッド〕の『原論』やプトレマイオスの『アルマゲスト』のようなギリシアの古典を新たに創造的に応用することによって成し遂げられたと考えられていた。ところが、この考えは、一九五〇年代終わりに崩れはじめた。ブラウン大学のオットー・ノイゲバウアー、ベイルートのアメリカン大学のエドワード・ケネディ、シカゴ大学のノエル・スワードロウ、コロンビア大学のジョージ・サリバが、コペルニクスの数学を再検討した。
 その結果、天文学を革命的に変えるためにコペルニクスは、古代ギリシア人が考えだしたのではない定理を二つ必要としたということがわかった。ノイゲバウアーは、こんな問題を考えた。コペルニクスは、こうした定理を自分で考え出したのか、それとも、ギリシア以外の何らかの文化から借りたのか。一方、ベイルートで研究していたケネディは、アラビア語で書かれた紀元一三五〇年より前の天文学の論文を発見した。この文書ではなじみのない幾何学が述べられていた。ケネディは米国を訪れたときに、それらをノイゲバウアーに見せた。
 ノイゲバウアーは、即座に文書の重要性に気づいた。そこにはコペルニクスによる月の運動のモデルとそっくりな幾何学が述べられていた。ケネディが見つけた文書は、一三七五年に死んだダマスカスの天文学者、イブン・アル・シャーティルが書いたものだった。イブン・アル・シャーティルのさまざまな仕事のなかに、コペルニクスが用いた定理の一つがあった。それは、もともと別のイスラム天文学者、ナシール・アル・ディーン・アル・トゥーシーが考えだしたものだった。コペルニクスより三〇〇年ほど前に生きた人である。
 今ではトゥーシー対と呼ばれているこの定理で、プトレマイオスなど古代ギリシアの天文学者たちを悩ませて以来、何百年もつづいていた問題が解決した。それは、円運動から直線運動がどのように生じうるかということだった。こんなことを思い描いてみよう。大きな球の内側に、その半分の大きさの球があり、小さいほうは大きいほうに一点だけで接している。トゥーシー対の定理によると、大きな球が回転し、小さな球が逆向きに倍の速さで回転すれば、小さな球は大きな球の直径に沿って振動する。天球を適当に配置すれば、どのように周転円が従円のエカントのまわりを一様な速さで運動しうるかが、この定理で説明できる。今や、天球がその中心を通る軸のまわりで一様な速さで運動すると想定することで説明ができた。これでプトレマイオスの体系の落とし穴を避けることができる。大雑把なたとえとしては、車輪を回しながら上下に動く、蒸気機関車のピストンを考えればいい。
 コペルニクスの体系に見いだされるもう一つの定理は、一二五〇年より前にこれを唱えた科学者、ムアイヤド・アル・ディーン・アル・ウルディーにちなんで、ウルディー補題と呼ばれる。これは、長さの等しい二本の線分が、方向がそろっていてもいなくても、ある直線から同じ角度で延び、線分のむこう端が別の直線で結ばれていれば、この二本の直線は平行であるということだ。二本の線分の方向がそろっているなら、四本の線は平行四辺形を形づくる。
 コペルニクスは著作のなかでウルディー補題の証明を述べていないが、それは、すでにアル・ウルディーが証明を発表していたからだろう。コロンビア大学のジョージ・サリバは、コペルニクスがこの定理の発見者の名を挙げなかったのは、一六世紀のヨーロッパではイスラム教徒の評判がよくなかったからだろうと推測する。
 サリバの言葉を借りれば、ウルディー補題もトゥーシー対も、「[コペルニクスの]天文学に本質的に組み込まれており、これらを取り出して、なおコペルニクスの天文学を無傷のまま残すことは考えられない」。
 …中略…
 地図の版元は、剽窃者をわなにかけるために地図に架空の島などを挿入することがある。コペルニクスは、発見者の名を挙げないでアル・トゥーシーの定理を借用したのか。動かぬ証拠はないが、コペルニクスの数学は、そうなる必然性のない細かい点でアル・トゥーシーのとそっくりなところがあり、その点で怪しい。どんな幾何学定理にも、それを発見した人が自由に選んだ文字や数字で標識づけされるさまざまな点がある。記号の順序や選択に必然性はない。ドイツの科学史家、ヴィリー・ハルトナーは、コペルニクスが幾何学的な点の表示に用いた記号はアル・トゥーシーの表記法とそっくりだと指摘している。つまり、アル・トゥーシーが「アリフ」の文字で表示した点を、コペルニクスはAで表示しており、さらに、アラビアの「バ」の文字で表示された点はBでという具合に、コペルニクスは、それぞれの点を、その標識として使われたアラビア文字に相当するローマ字で表示している。たんに標識のなかに同じものがあるというわけではない。ほとんどすべて同じなのだ。(5p~7pより)

 上記の引用などで、ヨーロッパがルネサンス期から、アラビア経由でエジプトに起源のあるギリシアの古典と、インドなどの数学も取り入れて独自に発展させたアラビアの学問を、貪欲に取り入れた様子が分かります。
 その上、1500年代以降、ヨーロッパからイエズス会士などの西洋人が直接、日本や中国まで来て、ヨーロッパ本国に情報を送っていた事実があります。それは、後藤末雄=著、『中国思想のフランス西漸』を、読むと良く分かります。
 おそらく、中国からは、国教の儒教に関する思想が多く、日本からは、大乗仏教に関する哲学や思想が、ヨーロッパへと伝わったものと考えます(インドでは大乗仏教は廃れていますから…)。
 それから、ロックは、一時期、オランダに亡命しているのですが、ちょうど同じ頃、ライプニッツも、近くに住んでいたらしいのです(『人間知性新論』の冒頭で、ライプニッツ自身が、そのような事を、ほのめかしています)。
 そして、ロックとライプニッツがオランダに居た、その数十年前から、オランダは、日本の長崎に、商館を設けています。ちなみに、ライプニッツは、中国の古典、『易経』から、二進法を考え付いたというエピソードも、『世界大百科事典』(平凡社)に載っています。
 以上からも、分かるように、東洋の哲学・思想・宗教(仏教・儒教など…)が、西洋へと伝わり影響を及ぼしたことは、間違いないものと考えています。


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アメリカの人種問題

 おそらく、アメリカ国内における人種問題は、今なお未解決の問題であろう。欧米の白人が、何世紀にもわたり、黒人を奴隷とし、売買してきた歴史上の汚点が、今もなお、尾を引いているのは、確かである。

 だからこそ、最近、過去の奴隷制や先住民迫害に対して、いくつかの州議会では謝罪決議が行われ、さらには連邦議会でも、同じような反省の動きが出はじめている。

 そして、希望はある。黒人と白人の混血である、バラク・オバマ議員が、アメリカ大統領候補として立候補し、かつ有望な存在として、認められつつある(下記サイト参照のこと)。

BARACK OBAMA 2004
http://www.geocities.jp/metropoleclub/p/obama.html


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伊藤一長・長崎市長

 伊藤一長・長崎市長が、暴力団員に銃殺されました。哀悼の意を表したいと思います。

 日本の暴力団の幾つかは、組織的テロ実行国家である北朝鮮と、北朝鮮が製造する覚醒剤や麻薬そして銃器類等の密輸などで、密接な繋(つな)がりを有しています。

 平和活動に貢献した象徴的な市長であればこそ、政治的な意図を持った、暗殺の可能性も有るのではないかと、考えています。


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旧約聖書 創世記 天地創造から(私自身の別のサイトから転載、加筆あり)

 旧約聖書、創世記、天地の創造から(下記引用は、『聖書』、日本聖書協会、新共同訳、1987年、1988年より、抜粋した)。

 神(かみ)は言(い)われた。「我々(われわれ)にかたどり、我々(われわれ)に似(に)せて、人(ひと)を造(つく)ろう。…」(第1章26節、旧-2pより)
 主(しゅ)なる神(かみ)は言(い)われた。「人(ひと)は、我々(われわれ)の一人(ひとり)のように、善悪(ぜんあく)を知(し)る者(もの)となった。…」(第3章22節、旧-5pより)

 旧約聖書、創世記、創造から(下記引用は、『旧約聖書 創世記』、関根正雄=訳、岩波文庫、2005年より、抜粋した)。

 そこで神が言われた、「われわれは人をわれわれの像(かたち)の通り、われわれに似るように造ろう。…」(第1章26節、11pより)
 さてヤハウェ神(かみ)が言われるのに、「御覧、人はわれわれの一人と同じように善も悪も知るようになった。…」(第3章22節、18pより)

 上記のように、「我々、われわれ」と有りますから、一神教の聖典である『聖書』において、神は当然、複数、存在することになります。ちなみに、ヨーロッパでは、ヴォルテールが、240年以上前に、「「創世記」第一節は、神ではなく神々が天と地をつくったと述べている…」(『ヴォルテール』、中央公論新社、2005年、432p)と、指摘しています。


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哲学(Philosophy)

【絶対者の非存在の証明】 --平成10(1998)年11月9日に自身のWebサイトで公表したものへ加筆-- 佐々木 寛

絶対者(Absolute)、とは何か。

キリスト教神学や西洋哲学などの絶対論者たちの言説から、一般に、絶対者とは、不変にして、他との比較や関係を絶して在るもの、あるいは、この生成変化している相対なる現象の世界から、全く無関係に独立して在る超越した存在ということになります。

故に、超越者とも言われます。そして、それはまた、他との関係を絶して在るが故に、他から何の制約も全く受けることが無いのです。依って、無制約者とも言われています。およそ、絶対論者たちの言う、絶対なるものとは、以上のようなものです。

ところで、われわれ人間は、そのような、絶対者ではありません。

当然のことではありますが、不変でも無く、他との比較や関係を絶して在るものでもありません。我々には、絶えず、関係し変化している、現象であるところの意識内容として、千変万化する喜怒哀楽の感情や、思索するという理性の働きが存在しています。

理性的に考えるならば、そのようなキリスト教および西洋哲学で言うところの絶対者と、我々が、如何なる関係も持ち得ないのは論理の必然です。

なぜなら、関係を絶して在るものと、関係を持つことなど出来はしないからです。関係を絶して在るものと、関係を持つことが出来ると言うのは全くの矛盾です。そしてまた、我々は、不変のものに変化を及ぼすことなど出来ないし、不変のものから変化を被ることも無いのです。その上、経験し得る事実としても、不変にして比較や関係を絶して在るものが、現象として在る我々の意識内容(=経験内容)に現出することなど有り得ない事なのです。すなわち、意識内容に現出しているもの、および現出し得るものとは、現象以外に存在しないのです。そして、不変にして比較および関係を絶して在るものが、我々の認識の対象に成ることは有り得ないし、また、その可能性すらも無いのです。極論すれば、そのようなものは本来、信仰の対象にも成り得ないものなのです。結局、我々と、絶対者とが、関係を有すると言うのは、経験し得る事実として有り得ない事であるし、しかも、論理の当然の帰結としても、我々と絶対者とが関係を有すると言うのは、全くの矛盾であり、錯誤です。さらに付け加えて言えば、我々が現象として存在している、この変化し、関係している現実の現象の世界に、絶対者は存在しないが、現実の現象の世界とは独立無関係の超越した処に、絶対者は存在すると考えたとしても意味がありません。何故なら、そのように現実の世界を超越した非現実(=形而上)の世界に在るものと、我々が関係を持つ事など有り得ないからです。そして、そのようなものから変化を被る事も無ければ、そのようなものに変化を及ぼす事も有り得ません。断言しますが、只の一度たりとも有り得ません。何故なら、只の一度でも何らかの関係が在ったのであるならば、それをして、絶対者であると言うのは誤りとなるからです。故に、理神論(deism)も成り立たない。さらに付け加えて言えば、キリスト教は啓示宗教であるとも言われていますが、その啓示と呼ばれているものが経験事実として意識内容に現出した瞬間、啓示が絶対では無いことと啓示の存在そのものが絶対者との関係の絶無を証明していることも認識するべきです(啓示とは、人間の能力では知り得ない真理や神秘が、唯一絶対なる超越神によって開示される事だと言われている)。以上、これまでの論説に拠って、唯一絶対の超越神、すなわち一神教で言うところの絶対なるものの非存在が証明されます。
 
【An Argument on Non-existence of the Absolute】 -- With additions to the released material in my own website on November 9, 1998 -- SASAKI Hiroshi

What is the "Absolute"?

According to the absolutists’ statement as seen in the fields such as Christian theology and Western philosophy, the absolute being is generally immutable; an existence beyond comparison and unfeasible to have a relationship with others, or a transcendent subsistence existing completely independent from this mutating and relative world of phenomena. Therefore, it is also called the transcendent. Since it is beyond relationships with other beings, it is completely free from any conditioning rendered by others at all. Thus, it is also called the Unconditional (“das Unbedingte”). These descriptions seem to be the plain summary of so-called the Absolute according to the absolutists. By the way, we, human beings, are not such absolute beings.

Obviously, we are neither immutable, beyond comparison or having relationships with others.

We all possess rational activities such as thinking and emotions such as the joy, anger, humor and pathos that change kaleidoscopically. These are the part of our consciousness as the phenomena of our on-going relativity and changes.

Rationally speaking, it is logically inevitable that we have no connection with such an absolute being of Christianity and Western philosophy because it is impossible to have a relationship with a being that exists beyond a relationship. It is entirely incoherent to say that we can have a relationship with a being that exists beyond a relationship. Besides, we cannot bring about a change to an immutable substance; neither can we obtain a change from an immutable substance. In addition, even in view of the experimental fact, it is also improbable for an immutable, incomparable, and transcendent being to be revealed in our phenomenal consciousness (= experience). That is, the thing currently revealed in our consciousness and the things which can be revealed do not exist apart from the phenomena. Neither can an immutable, incomparable, and transcendent being be subjected to our consciousness. There is not even a possibility for such. Extremely speaking, it cannot principally become the object of faith. After all, there is no objective reality of such a notion that we can have a relationship with the Absolute. Moreover, it is an inevitable logical conclusion: to say we can have a relationship with the Absolute is incoherent, and is a fallacy. Furthermore, if I may add, we exist as a phenomenon, and the Absolute does not exist in this changing and relative world of actual phenomena; yet, you might think that the Absolute exists at the independent, non-relative transcendent place apart from the world of actual phenomena. Such a premise is meaningless because it is not possible for us to have a relationship with a being in an unrealistic (= metaphysical) world which is transcendent from the actual world. And we cannot obtain a change from an immutable substance; neither can we bring about a change to an immutable substance. I am absolutely certain that it is not possible at all, not even once because, if a relationship with the Absolute were possible even once, then the idea of “It is the Absolute” itself becomes false. Consequently, deism is unfeasible either. Furthermore, at the moment what is called revelation appears to our consciousness as an objective reality, the revelation is proven not to be the Absolute. The existence of revelation itself nullifies the relationship with the Absolute negating the assumption of Christianity as a revealed religion. (Revelation refers to the truths and mysteries beyond human capacity to understand what is revealed by the only absolute and transcendent God.) Hence, non-existence of the only absolute and transcendent God, namely what monotheism calls the Absolute, is proven by the above argument so far.

〔注〕 上記は、下記サイト(URL)から転載したもの。
「原文と英訳」
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/original-english.html

〔追記〕 我々が存在する相対的なる現象世界とは別に存在するものを想定しようが、結局それは、我々の世界と相対的に存在するものでしかなく、絶対者などでは有り得ないのです。
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哲学(Philosophy)

【実体の非存在の証明】 --平成10(1998)年11月9日に自身のWebサイトで公表したものへ加筆-- 佐々木 寛

実体論者たちの言う、実体(Substance)、とは何か。

事物や意識または精神などの、生成変化する現象の根底に在って、それらの変化を司(つかさど)り支配する、それ自体は変化せぬ恒常なるもの、すなわち、実体。

なんと稚拙な哲学であることか。それ自体、変化しない恒常なるものが、どうして変化を司り、変化を及ぼすことができるのか。もし、それ自体変化しない恒常なるもの実体が、変化を司り現象に変化を及ぼすと言うのであるならば、変化を司り変化を及ぼすという事自体を、どう考えれば良いのか。司ること、および、何かを及ぼすこと、それ自体、変化している事に他ならないではないか。まさに、矛盾した言説以外の何ものでも無い。彼らが言う実体とは、本来、ある現象の内に在って、その現象に、ある変化を及ぼし、かつ被る、その現象内の内部現象と言うべきものなのです。

実体論者たちが、それは違う、現象の根底には必ずや、生成変化している現象とは全く関係の無い、不変にして唯一の実体が在るのだ、と言うのであるならば、まったく関係の無い実体が在ったとして、それは、まさに字義通り、現象である我々とは、まったく関係の無いものでしかないのです。結局、実体とは、虚構の概念でしか無いのです。我々の経験内容(=意識内容)に、実体が現れることは有り得ませんし、それに何らかの影響を及ぼしたり、それから何らかの影響を及ばされることも有り得ません。何故なら、それが我々の経験内容に現れたり、影響が在った瞬間、それは実体で無かったことを証明してしまうからです。拠って実体とは、事実経験ないし経験し得る事実として存在し得ず、尚且つ、論理的に矛盾した虚構の存在でしかない事が解ります。以上において、実体の非存在も証明された。
 
【An Argument on Non-existence of Substance】 -- With additions to the released material in my own website on November 9, 1998 -- SASAKI Hiroshi

What is the “Substance” according to substantialists?

It refers to an entity that exists at the root of mutable phenomena such as objects, consciousness, and mind. This also governs and controls the changes entirely while itself is remaining immutable and constant, namely, a substance.

What a naive philosophy it is! How can a constant entity govern and bring about changes while existing itself immutable and constant. If an immutable and consistent substance governs "change" and causes "change" to phenomena, then, how are we ought to consider the meanings of the very actions like “to govern” or “to cause a change”? To govern and to cause something: these actions themselves are to "change" or subject to "change", aren't they? Such notion is absolutely absurd and even contradictory. What they call "Substance" is essentially within a certain phenomenon causing a certain change to and obtaining such from the phenomenon. Namely, it should be considered as an internal phenomenon within the phenomena.

Substantialists would say that is not correct. In other words, they may assert the notion that there is the only one immutable Substance existing independent from the mutable phenomena completely and consistently at the root of any phenomena. If this is the case, their Substance is exactly, as they say, something that has nothing to do with us, humans, who exist as mere phenomena. After all, what they call the "Substance" is nothing but a fictitious concept. It is not plausible that the Substance reveals itself in our experience (=consciousness). Neither is it plausible that the Substance influences something else or is influenced by something else. At the moment it reveals itself in or influences our experience, it proves itself not to be the Substance. At this point, it has become clear that the Substance cannot exist as an objective experience or an objective reality. Moreover, we can see it is nothing but a logically incoherent fictitious existence. Henceforth, the nonexistence of substance was also proven above.

〔注〕 上記は、下記サイト(URL)から転載したもの。
「原文と英訳」
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/original-english.html


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哲学(Philosophy)

【認識論】 --平成10(1998)年11月9日に自身のWebサイトで公表したものへ加筆-- 佐々木 寛

一般的に認識というものは、対象となる事実経験(対象事実)と、論理一般(名辞:記号、概念:観念、論理:構造)の無矛盾性と、価値一般(正と負と中立の価値および全的価値と個別価値など)との妥当性という、三種の要素の整合性によって齎(もたら)されるものと考える。

非常に短いが、これで、一般的な認識については十分であろうと考える。
 
【Epistemology】 -- With additions to the released material in my own website on November 9, 1998 -- SASAKI Hiroshi

I believe that, to know something generally requires the coordination of the three types of elements: Objective experiences with its subject (subjective reality), Consistency of general logic (constitution of concept=symbols, concept=idea, logic=constitution), and Validity of general value (includes positive/negative/neutral values and the general/individual values).

This explanation is very short; however, it will probably be sufficient to explain epistemology in general.

〔注〕 上記は、下記サイト(URL)から転載したもの。
「原文と英訳」
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/original-english.html


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哲学(Philosophy)

【永遠の今】 --平成11(1999)年9月26日に自身のWebサイトで公表したものへ加筆-- 佐々木 寛

われわれを含む現象の総体(森羅万象)の、一秒前の、現象の総体(森羅万象)は、もはや存在しません。そして、一秒後の、現象の総体(森羅万象)は、いまだ存在しません。

それは、一秒という時間だけでは無く、一千分の一秒という時間でも、一万分の一秒でも、一億分の一秒でも、一兆分の一秒という時間でも、同様です。

われわれを含む、一兆分の一秒前の森羅万象の汎(すべ)ては、もはや存在しません。そして、一兆分の一秒後の森羅万象の汎(すべ)ては、いまだ存在しません。

ただし、過去の現象の総体が存在したことは、確かであり、それが、悠久の過去から継起をつづけ、今現在の、われわれへと至っているのです。

たとえば、父母未生以前に、われわれは存在しません。

そして、そこでの、われわれ人間の存在価値とは、もはや存在しないものと、いまだ存在しないものの間隙(かんげき)の瞬間、その刹那に在って継起しつづける永遠の今を生きる、われわれ人間の営為そのものに在る。

ほんとうの、ほんとうの、神というのは、汎(すべ)てを悠久の昔から継起させつづける“永遠の今”なのかも知れない。 

【Eternal Now】 -- With additions to the released material in my own website on September, 26, 1999 -- SASAKI Hiroshi

The whole phenomenon (universe) one second before the whole phenomenon (universe) including us does not exist any longer. And the whole phenomenon (universe) of one second after does not yet exist.

It is not only the time frame of per second, but also the same in case of the time frames of per 0.001 seconds, per 0.0001 seconds, per 1/10 million-second, or even per 1/1 trillion seconds.

The entire universe including us, even just 1/1-trillion seconds prior, does not exist any longer. And all the universe of 1/1-trillion seconds in the future does not yet exist.

However, it is clear that the past whole phenomenon existed, continued from the past-time immemorial, and has come to us in this present moment. For example, we do not exist before our parents were yet to born.

And there, our existential value as human beings resides in our very action, as human, of living this Eternal Now within the momentum continuation amid the gap between what does not exist any longer and what does not yet exist.

Maybe, this "Eternal Now" which maintains the continuation of all existence from time immemorial could be truly truly a "god."

〔注〕 上記は、下記サイト(URL)から転載したもの。
「原文と英訳」
http://www1.odn.ne.jp/~cak23720/original-english.html


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日本の個人主義の起源(自分の他のサイトから転載、加筆あり)

 日本の個人主義の起源を考える時、よく明治以降、西洋からの影響と考えられがちであるが、そうではなく、仏教からの影響の方が、はるかに強いのではないかと考えている。

 たとえば、釈尊自身の言説や行動を古い仏典で読むと、それは、まさに個人主義者のものとしか考えられない。阿含経典など、個人の自由な意志が、可能な限り尊重されているのは、一読すれば分かることである。そして日本においては、鎌倉時代の、道元や、日蓮、そして法然などの僧侶は、個人主義の権化のようにも思える。

 近代における、個人の自由を過度に抑圧する集団主義(あるいは全体主義)こそ、西洋で生まれたものであろう。たとえば、キリスト教の異端審問や、魔女狩り魔女裁判。また、異端者や異分子への苛酷な仕打ちは、共産主義や国家社会主義ほど、顕著なのは明らかである。

 日本の場合、江戸時代においても、良寛などは、個人主義者で、自由人に思える。ちなみに、江戸時代の和算家(数学者)の関孝和は、自ら、自由亭と号したそうである。また、芭蕉にしても、北斎、広重にしても、まさに個人主義者で、かつ自由人であったろう。その他に、若冲、梅園、仁斎などなど…。これらの人々が、集団主義者だったとは、到底、言えまい。

 さらに、江戸時代を通して見た場合の武士個人にしても、不正を働くような、不名誉なことで名を汚すのは、恥以外の何ものでもなかったと考える。日本は、恥の文化だとも言われるが、恥というのは、個人の感情に基づくものであろう。

 そして、脱藩までしている、高杉晋作や、坂本龍馬などは、共に、既存の組織に囚(とら)われない、まさに個人主義者であり、かつ自由人である。このような、個人主義的な自由人が、祖国の為に尽力したことは、日本の精神文化の深みを感じさせる。

  おもしろきこともなき世をおもしろく (晋作) すみなすものは心なりけり (望東尼)

  いま一度、日本を洗濯致し候事、神願にて候 (龍馬)

 おわりに、有名な、都々逸(どどいつ)を、ひとつ。ここに、濃厚な自由の香りと、強烈な個人主義を、誰しもが、感じるのではないだろうか。しかも、時は、江戸時代末期である。

  三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい (高杉晋作)


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「財政問題」(自分の他のサイトから転載)

 旧ソ連が、財政破綻した時、たしか最高7000%のハイパーインフレになったと何かで読んだことがある。実際、数千%のハイパーインフレが何年間か続いたのは、確かであろう。

 日本も、そうなる可能性は皆無ではないが、当時の旧ソ連の場合と条件の違いがある(実は、今の日本の方が国内総生産に占める借金の割合は多くなっているとも聞いているが…)。

 基本的な違いは、旧ソ連の場合は、民間企業部門が存在せず、政府会計が全てであったということだと考えている(共産党による独占)。日本の場合は、政府会計の他に民間部門が別にあり、その民間の優良企業群の輸出などで大きな経常収支の黒字がある。

 政府紙幣による赤字国債の利払いや償還は、究極的な借金の先送りとも言えるが、国債の、円:ドル、円:ユーロ相場(為替市場)への転換だとも考えられる。

 一千兆円に近い国の国債などを、一気にではなく、毎年数十兆円づつ(利払いや償還を)政府紙幣で支払えば、円への信認の低下(経常収支の黒字があるうち)は、それほど大きなものではないのではないだろうか?

 そうだとすれば、円の信認の低下によるハイパーインフレは、旧ソ連の場合より可能性は低いと考えられるのだが…。

 そして、その他に、円への信認の低下を必要以上に来さないように、政府および公的部門の無駄を極力減らし、予算を効果的かつ効率的に使うようにすれば、一千兆円に近い国の債務も少しづつではあるが減らして行けるものと考えている。

 追記:ちなみに、その「政府紙幣」の顔は、聖徳太子以外には考えられない。額面は五万円ぐらいか…。


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「政府紙幣」(自分の他のサイトから転載)

国債の利払いや償還を、「政府紙幣」で行えば、貨幣価値への信認が低下し、対外的には、円安になると思えるが、どうだろうか?

そして、円安の場合は、輸出企業にとって有利となる。


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日本経済についての簡単なノート(自分の他のサイトから転載、修正アリ)

日本経済についての簡単なノート  投稿者:佐々木 寛

 経済学者ではありませんが、日本経済についての簡単なノートです。

 日本経済は、デフレ基調が問題だと言われていますが、デフレ基調からの脱却は、「公務員給与を大幅に削減し、最低賃金を、ある程度、上げれば、経済成長の起爆剤に成るのではないかと…」考えています。

 ただし、成長軌道に乗った場合、国債の金利は、どうなるのか?

 一部には、国債を政府紙幣に変換すれば、金利の問題はなくなるという考えもあると聞いていますが、その場合、ドルやユーロなどとの円相場に還元されるのか?

 もし、円相場に還元されるのなら、為替相場は、どう動くのか?

 悪影響か?

財政赤字の削減その他  投稿者:佐々木 寛

 財政再建は、無駄使いを減らすのが基本でしょうが、予算の使い方は、どうすれば、効果的かつ効率的になるのか?

 そして、累積した膨大な国の借金を、どうするのか?

 政府および公的部門の予算を、効果的かつ効率的に使うように、極力無駄をなくした上で(要するに、政府および公的部門が、一般国民から信認を得る必要がある。その上で…)、国債の利払いや償還を政府紙幣で行えば、悪影響は少ないのではないか?

 また、その場合の、対外的な円の信認の度合い「ドル:円」「ユーロ:円」などの相場への、悪影響も検討するべきだろう。参考に、下記URL参照のこと。
http://www.mof.go.jp/jouhou/soken/kenkyu/ron086.pdf

国際収支の経常収支が黒字の場合  投稿者:佐々木 寛

> 政府および公的部門の予算を、効果的かつ効率的に使うように、極力無駄をな
> くした上で(要するに、政府および公的部門が、一般国民から信認を得る必要
> がある。その上で…)、国債の利払いや償還を政府紙幣で行えば、悪影響は少
> ないのではないか?
>
> また、その場合の、対外的な円の信認の度合い「ドル:円」「ユーロ:円」な
> どの相場(への影響は如何に…)

 日本の国際収支の経常収支が大幅な黒字の場合(多くは民間企業の働きの賜物)、「政府および公的部門の予算を、効果的かつ効率的に使うように、極力無駄をなくした上で(要するに、政府および公的部門が、一般国民から信認を得る必要がある。その上で…)、国債の利払いや償還を政府紙幣で行えば、悪影響は少ないのではないか?」

 そうすると、官が生み出してきた公的部門の赤字を、民間企業の働きの賜物である貿易における黒字で穴埋めすることになるのだろうか? 


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恐喝罪

「他人を脅して財物を交付させたり、財産上不法の利益を得、または他人にこれを得させる罪(刑法249条)。」(『日本大百科全書』、小学館より)

ガスを撒かれたり、猫の死体が有ったり、などなど、…だが、しかし、そのようなことをする卑劣なクズ連中の脅しに屈するようでは、高貴な武士的精神を有する日本男児とは言えない(笑)。


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